現存する日本最古?の公民館-舒翠館

 

入口にある案内板

現役の公民館で明治18年に建てられた言うことは、『もしかして日本で最も古い?』と思わずにいら         れません。図書館にも出向いて調査していますが、今まで調べた範囲では舒翠館より古いものは見つ        かっていません。

・・・ ということで、とりあえず、暫定的に、『最も古い?公民館』 として紹介しておきます。

              

 

 

 

太い欅(ケヤキ)の柱、黒光りする廊下・・・・歴史を感じさせる造りです。

内部の一般公開はしていませんが、毎年3月にはここで古い写真を集めた展示会を開催しますので、そのときに見ることができます。このHPでも案内しますので、是非お立ち寄り下さい。

 

 

倉庫の中から出てきた写真。

消防団関係を中心に、このような資料がたくさん保存されています。スキャンした写真を別項で紹介する予定です。

 

 

上の2枚の写真は、平成3年、台風19号の修復作業の様子です。伝統的な軸組工法の構造とか、吊り天井の様子がよくわかります。

もうひとつ、このページを書きながら気づいたことが・・・正面にあった鬼瓦が消えている!

(古い写真にその姿がはっきりと写っているものがありました。下 ↓  )

台風のあとも鬼瓦本体は健全だったように見えるので、どこかに保存してあるかもしれません。次に行った会に探してみようと思っています。

 → 舒翠館の倉庫の中に大事に保管されているのを見つけました。(2016年01月28日記入)   

 

 舒翠館と選拳干渉事件

上から2枚目の写真(案内板)に書いてあるように、舒翠館は明治25年(1892年)に起きた選挙干渉・乱闘事件の現場として歴史の舞台にもなりました。広いとはいえ、舒翠館の大広間に700名、会場周辺を合せると2700名の人たちが集まって乱闘を演じたと聞いビックリです。

その模様を伝える記事が3つありましたので紹介します。長文になりますが、興味ある方はご覧下さい。

 

(1)朝倉町史(昭和61年、朝倉町教育委員会)

明治10年代になると、色々の会議や演説会、農家の話し合い、あるいは親睦会など、多数の人達の集る事が多くなり、広い集会場が必要になった。明治18年(1885年)に、甘木朝倉地方では初めての公会堂である舒翠館が、比良松地元の人達の奉仕で建設された。このような大きな建造物が出来たことは、当時としては非常に珍らしい出来事であったと思われる。このような会場が出来ると、地元の人々の利用はもちろん、郡役所の会合も舘翠舘で開かれることが多くなった。

この舘琴錦が有名になったのは、明治25年(1892年)の選挙干渉乱闘事件である。

当時の松方内閣は、第2回国会で海軍々備拡張問題で議会が紛糾し、明治24年(1891年)12月25日、遂に議会を解散、翌明治25年2月15日に、衆議院議員の臨時総選挙を告示した。当時の福岡県は8選挙区に分かれ、定員は9名であった。甘木朝倉地方は粕屋、宗像、那珂、御笠、蓆田の5郡とともに、第2区(定員2名)に入っていた。第2区では、吏党(与党)から香月怒経、小野隆助、民党(野党)からは多田作兵衛、藤金作が立候補して、4人で2議席を争うことになった。

時の内務大臣品川弥次郎は、政府支持者を良民、反対者を破壊者と呼び、国家のため、良民を当選させるためには、手段をえらぶ必要なしと、各地方官に下知して、盛んに選挙干渉をはじめた。かくして与党、野党の選挙戦は日毎に激しさを増し、いたる所で乱闘事件が起きた。1月31日、多田派の演説会が甘木の希声舘で行われたが、前もって吏党の妨害ありとの情報がわかったので、多田派では、屈強な連中を集めて演説会を開いた。案の定吏党の壮士約40名が一斉に立上り弁士めがけて打ちかかって来たが、民党側の反撃をうけ引揚げて行き、演説会は中止となった。

翌日の2月1日は、比良松の舘翠舘で、民党の演説会を開く予定であった。吏党側は、昨日の仕返しと、福岡に打電し応援を求めたので、玄洋社の壮士百余名が、応援のため朝倉に向かった。甘木警察署は、事の重大さに、県警より特派された警務課長の指揮の警部3名、巡査38名と共に会場の警備に当った。演説会場の舘翠舘は、周囲を目細の竹矢来で結いめぐらし、あたかも仇討場の有様である。演壇の前には頑丈な木柵を作り、傍聴席よりの暴漢の乱入を防ぐようにされた。弁士席の後方には、民党の壮士3、40名が弁士を護るために控える席も作られた。

会場に700名、場外には2000名の群衆がつめかけた。警官の厳重な警戒のもとに演説会がはじまった。応援弁士の演説が終り、最後に多田候補の演説となり、政府攻撃をはじめると、群衆にまぎれこんでいた吏党側は、一斉に立ち上り大乱闘となり、石塊が飛び、棍棒が振り廻される中で、吏党側は木柵を乗り越えて、演壇の弁士に飛びかかっていった。待ちかまえていた民党側も、猛然と反撃に出た。お互いに同志討ちをしないように、更党側は黄色の布を、民党側は赤色の布を目印につけていた。この乱闘事件で秋月の安東春雄と、朝倉の唐川幾太郎、林喜四郎(民党)が重傷を負った。多田候補は皆に守られて三輪の自宅に帰った。

このような大騒擾を演じた選挙の結果は次の通りであった。

2088  小野隆助   中央クラブ (吏党)

2051  番月怒経   中央クラブ (吏党)

1766  多田作兵衛  自由党   (民党)

1659  藤金作     自由党   (民党)

で、小野と香月の両氏が当選した。福岡県下の選挙区9の当選者の内、民党では第6区で当選者を出しただけで他の8名は皆吏党側の勝に終った。しかしながら全国的には民党側の勝利となった。5月2日に召集された特別議会では、貴族院(参議院)に於て、「選挙干渉に関し政府に反省を求むる建議案」を可決、また衆議院でも「内閣弾劾上奏案」が提出された。政府を弾劾する決議が出され、内務大臣品川弥次郎は、選挙敗北の責務を負い辞職した。この選挙の結果、松方内閣は敗退したが、11月の福岡県議会では、この事件をとりあげて県当局を追及し、『警察官職務怠慢を内務大臣に建議する件』を可決した。

 

(2)あさくら物語(昭和38年、古賀益城、あさくら物語刊行会)

明治24年12月25日、議会政治創始以来、第2回目の帝国議会は、海軍拡長問題で政府当局と衝突し、遂に解散を命せられた。翌25年(西暦1892年)1月11日附を以て、2月15日に衆議院議員の臨時総選挙を行ふべき詔勅は下された。

当時の政界分野を見ると、自由党と改進党は純然たる民党(野党)であり、中央倶楽部は吏党(与党)の中核であった。大成会と自由倶楽部及び無所属は多くは吏党側であったけれども、民党に与みする者もあった。よって内務大臣品川弥次郎は、政府支持者は良民、反対者を破壊者と呼び、国家のため良民を当選させるためには、手段をえらぶ必要はないという決意を以って、各地方官に下知して、盛んに選挙干渉を行はしめた。

之に対する民党の応戦また猛烈を極め、棍棒飛び鍼拳躍るは未だしもの事、剣刃閃めき銃砲轟き、家を焼き人を殺し、壮士の暴行、運動者の狼籍、到らざる所なく、政府は之が為めに予戒令を発し、臨時保安条令を布き、甚だしきは憲兵を派遣して之が鎮圧に当らしめた位である。

中にも高知・佐賀2県の如きは、投票当日、暴漢の阻害に遭うて正当に投票を行ふ事も出来ず、高知などでは大切な投票函を暴漢に奪ひ去られたなど云ふ珍事を起し、福岡・石川2県の如きも亦劣らず猛烈なる騒動で、此期全国を通じて、死亡者25名、負傷者388名を出したほどであった。

之より前、熊本県人、安場保和が、明治19年2月、福岡県令として来任したが、同年7月法令改正の結果、福岡県知事となった。此頃、福岡には箱田六輔・頭山満等の玄洋社があって、自由民権を主張してゐたが、不図した機会から、安場知事と情意投合して、その与党となった。のみならず、玄洋社一派が企画してゐた機関紙『福陵新報』 (九州日報の前身)も、明治20年には発刊され、吏党の陣容が整ってゐた。之に対時する民党は、山門の岡田孤鹿を主将とし、『福岡日々新聞』を機関紙として反撃これ努めた。

当地方、上座・下座・夜須(以上朝倉郡)・御笠・席田・那珂(以上筑紫郡)・粕屋・宗像の各郡が、福岡県第2選挙区であったが、此所からは前代議士であった香月恕経が、玄洋社の関係から吏党側で立候補し、同じ夜須郡の出身であり、嘗ては集志社の正副社長として提携してゐた多田作兵衛が民党側の候補として対立した。その外、吏党側に小野隆助(筑紫郡)、民党側に藤金作(粕屋郡)立候補し、4者相対して2つの議席を狙う激戦となったのであった。

吏民両党の戦闘動作は、新聞紙上の偵察戦斥候戦から始まったが、其騎兵の衝突とも見らるべき小競合は福岡日々新聞主筆、宮城坎一の作人橋遭難である。宮城が某の呼び出しを受け、人車に乗って作人橋(福岡市)の中央へかかった折柄、何者とも知れず闇の中から突っ立ち現れ、いきなり宮城を引きおろして、ザンブと許り、那珂川の真只中へと投り込んだ。併し宮城は幸ひに大した怪我もなく済んだが、その翌々夕にも同じく作人橋通行中の某が、民党人と誤られて那珂川に投げ込まれた事件があった。

斯して愈々戦機迫ると共に、吏民両党の第1回の衝突は、1月31日、夜須郡(朝倉郡)甘木町で行はるべき段取と成った。吏党の指揮者は玄洋杜の大原義剛・浦上勝太郎、続いて秋月武士の平江実など何れ劣らぬ血気連で、手勢大凡そ200余名と註せられた。大原其日の扮装は黒の木綿の紋付羽織に腕まくりし、右手に四尺許りの生木刀を杖ついて威風堂々、民党演説会の前日から甘木町に繰り込んだ。

先づ東角屋(熊屋とも云ふ)を本陣として手筈を定めた。手勢の者共には何れも蛸鉢笠に茣蓙蓑を着せて、一見人夫の姿に裳はせたので、人々は之を「タコンパチ組」と称して居た。此等は多くは秋月・下座辺から駆出した旧足軽連である。本陣の庭には昼夜篝火を焚かせ、帯刀の番兵が常に10数人づつ警固して、其陣容の物々しさ言はん計りなき状態である。而して比等帯刀の連中が、夜分に成ると示威的に民家の雨戸を刀でボスリボスリと突き徹すのである。

之に対する民党の陣容も、物々しさに於ては敢て多くを譲らなかった。先づ候補者たる多田作兵衛は、森山村(三輪村)の本邸に控へさせ、昼夜番兵を附して之を護衛させた。甘木町では大阪屋を本陣と定め、嘗って郡長たり後に福岡県会副議長となった山田正修を始めとして、鵜沼不見人・高瀬弥十郎等が、「イザ」と云はばと待ち構へ、此処にも相応に多数の兵を集めてゐた。両党とも、尚此外にも、石櫃(夜須村)・比良松(宮野村)其他の村々に、幾多の小本部を設け、其々連絡ある動作をして居た。

明くれば1月31日、民党演説会の当日となった。会場は甘木町の希声館(現在の希声館とは異なる、今の魚市場の処にあった。) である。去る22年に新築されたばかりで、百畳敷の大広間と云へば、其頃九州第一の公会堂であった。

吏党側は前日、秋月山から樫木棒を300伐って来て、壮士は何れも其棍棒を隠して会場に入込む作戦であると密告する者があったので、民党側も予かじめ屈強の壮士を場内に配置し、迎撃の用意怠りなかった。やがて午後の3時頃、壮漢、山中茂は演壇に起って猛烈に吏党を罵倒し、次には第3区で立候補しながら応援に来てゐる庄野金十郎、而して最後に候補者多田作兵衛と云ふ順序であったが、庄野の演説半ばにして、変な合図をする者があって、吏党の壮士約四十名、手に手に隠して居た一尺五寸許りの棍棒を振り上げて一時に立上らうとした。

民党の壮士は予て期した事ではあるし、「何に小癪な」とドッと組み伏せ、其棍棒を奪ひ、反対にしたたか吏党側の壮士を撲付けて遣ったので、逆襲見事に功を奏した。比の混乱の中で、吏党側の安川村篠原隣・秋月村遠藤泰蔵・民党側の秋月村荒木又七・栗田村橋津新太郎の4人が傷ついた。

演説会は比の騒ぎで中止解散と成ったが、民党側はその場で直ちに懇親会に引き直して、1500余名居残り、鯣昆布で冷酒を酌みかはし多田・庄野その他同志の慷慨悲憤なる演説をなし、万歳を唱へて解散、本営に引揚げた。吏党側は如何にも無念でならず、明日こそは復讐せずには置かじと、之亦本陣へ集合して次の作戦を凝らしたのであった。

翌2月1日は比良松で民党演説会を催す予定であった。吏党側では前日甘木の大敗戦を回復すべく、更に福岡に打電して、同地の玄洋社をはじめ壮士100余名を増発せしめた。甘木町の警察署では、事の容易ならざるを感知したので、特に民党の辻勇夫を呼んで、比良松演説会の中止を命じた。

辻は之を民党の本営に報告したが、本営には多田候補・庄野応援弁士も居合せた。辻の報告を聞いた一同、以ての外といっかな受付けぬ。「暴漢あって妨害をする虞があるなら、警官が取締るべきではないか、其れに何ぞや、妨害の虞があるから演説会を申止せよなど、之が立憲国の官吏の口から出された事か、遣るべし、益々大に遣るべしだ」と気焔は愈々昂じて来た。

民党側の弁士を始め、党員・戦士・傍聴人等は開会前から、続々と会場目がけて押しかけた。会場は比良松の舒翠館。昨日の会場希声館に先だつ事4年、明治18年に建てられた郡内最初の公会堂である。

翻って吏党側は、今日こそ昨日の雪辱戦だと、壮士・暴漢・弥次連迄、我後れじと馳せ参じて、開会の時刻となると場内既に立錐の地も無い盛況、当時の記録に徴して見ると場内無慮700名、場外2000人。警備の警官は、県警察本部より特派せる警務課長指揮の下に、警部3名・巡査38名とある。

同年12月、警察官の職務怠慢を内務大臣に建議した福岡県会の決議文の一節に、抑も会場は舒翠館と称する公会堂にして、左右民屋に接し、出入の便なく、前面は木柵にして中央に門あり。後面は竹牆にして出入の途なく、敷地は方形にして128坪あり。会堂は即ち其中央にあり。其坪数は僅に37坪半に過ぎず。堂外余地亦少く、守衛尤も便なり。今試みに臨監の警官42名を敷地128坪に配置すれば、3坪4勺強に警官1名の比例となり、之れを堂内37坪半に配置すれば8合9勺に警官1名の割合となる。狭隘の場内に如此多数の警官臨監し、暴行者を目撃しながら、現場に於て1名の兇行者だも逮捕する能はず、云々とある。尚、隣警察にも応援を求めて居たが、何れも大混乱の後に到着し、福岡からの助勢の巡査は其夜12時過ぎて着いたと云ふのであるが、之でも如何に其騒擾の激烈であったかが想像せられる位である。

此会場の物々しさは又非常で、舒翠館の周囲には目細の竹矢来を結ひ繞らして恰かも仇討場の光景である。演壇の前には頑丈な木柵を造って傍聴者席と隔絶し、暴漢の乱入を防いである。弁士席の後方及び両側には、味方の闘士3~40名、護衛の役を勤めて居る。無論比内には生命惜しまぬ壮漢も適宜に配置してあるのであった。

尚前日、甘木演説会々場で、吏党の者等が棍棒を隠して居たのは不都合だとの民党側の苦情に依って、今度は竹矢来の入口に巡査が居て、一々入場者を検身することと成って居た。併し吏党の者と警察官との間には一種の暗号が出来て居て、吏党側と知れれば大概にして入場させ、民党側の者で稍々人相でも悪い奴と見ると絶対的に入場させぬ。其から所持品は厳重に調べることと成っては居たが 如何に入場口では取締っても、兇器様の物はすべて既に入場して居る者と牒し合せて、入口以外の矢来の目から投げ込んである。而も巡査は見て見ぬ風をして居るのである。兇器と云へば、例の棍棒、石塊を包んだ手拭、刃物仕込の大煙管などである。

開会の辞が済み、庄野の演説も済み、最後に弥々多田候補の演説となった。吏党側の壮士は、演壇直下に、前・中・後陣、而して其主力の中央には、大原が例の黒木綿の陣羽織で悠然として控へて居る。民党側も魚鱗鶴翼の陣形乱さず、双方暫しは片唾を呑んで構えて居たが、間もなく弥次り始めた。

次に辞士の政府攻撃をキッ掛けに、忽ち場内総立ちと成った。石塊飛び、棍棒躍り、白刃閃く。弁士は励声一番、「卑怯者めッ、我言論に畏怖するか」と大喝し、卓上の花瓶を提げて、寄らば打たんと身構へした。瓶梅飛んで散乱し、吏党側は木柵を乗り越えて直に演壇に肉迫する。民党側の壮士は、傍聴席へ飛び下りて混戦乱撃、一時は殆んど名状も出来ない騒ぎであった。

斯かる折しも、弁士護衛の壮士連は、否む弁士を無理から演壇上より引き降ろして背後の床の間に押し隠し、10数名で其前に立ち塞がったので、吏党側は早や弁士が逃げたとでも思ったものか、噺やく退却し始めた。

此日、吏党側は黄布を、民党側は赤色の布と云ふ風に、各々目印を付けて居たが、混戦中或は布を棄るもあり、或はわざと敵方の標識を着くる者などあって、大分同志討を遣った者もあった。

此日、福岡市の山中茂・秋月村の安東春雄・朝倉村の唐川幾太郎・同じく林善四郎の4名(何れも民党側)負傷したが、中にも山中は最重傷で、始めに石塊を手拭に包んだので頭蓋骨を砕かれ、次に短刀を以て三刀まで、同じく頭部に斬付けられた。さすが剛気の山中も、要所の痛手に巳むなく会場に隣接した某飲食店へと引揚げた。

此家の2階には民党の幹部数名が既に引揚げて来て居たが、敵党の来襲を慮かって梯子を外して居た処、吏党側の者が果して下から槍を突き掛けた。山中は血汐に塗れながら、在り合ふ碁盤を振り翳して、寄らば微塵にして呉れんと身を構へたので其権幕に辟易してか、吏党側は間もなく退却した。下からは大身の槍を突き出し、上から碁盤を振り翳すなど、丸橋忠弥の歌舞伎にでも見そうな図で、立憲治下の選挙になど之れあらうとは一寸想像し難い所である。

比等の兇行者は、何れも後日法廷に召し出されて、厳重の取調を受けたが、山中の加害者は重禁錮11ケ月、安東のが同10ケ月、唐川及び林のが同9ケ月、皆其々に処刑された。

此時の警察側の行動に甚しい不公平があったと云ふので、其後は地方民が警察官を信頼しない様になり、兎角相互の感情が融和し難い様に成.った。或時、比良松附近の田中利平なるものが、警察官が通行の際「巡査は藁人形だ」と云ったので'巡査は之を聞き咎め、官吏侮辱なりとして其筋に訴へた。無論此事は比良松演説会の際、多数の巡査が出張して居るにも拘らず、多数人の怪我人を生じ、警察官の不注意不行届きであったから、「巡査は藁人形」と云ったので、其通りに申立てをしたら、遂に無罪放免となったと云ふことである。

前記、甘木希声館・比良松舒翠館の紛擾を初頭として、筑紫・嘉穂・遠賀・宗像・三瀦・山門・三池・八女の諸郡、何れ劣らぬ大騒擾を演じたが、中にも嘉穂郡の大隅・遠賀郡の黒崎・三瀦郡の西牟田・三池郡の大牟田など、最も激烈で、死亡4名、負傷者85名を出した。

而して第二選挙区開票の結果は、

2088 (中央クラブ)  小野 隆助

2051 (  同   )   香月 恕経

1766 (自 由 党)  多田作兵衛

1659 (  同   )  藤  金作

で、小野と香月の両氏が当選し、福岡県下8選挙区9人当選の内、民党側は第6区(山門・三池)の岡田孤鹿のみで、他の八人は皆、吏党側の勝利に帰した。 然るに全国的には、民党側の勝利となり、遂に品川内務大臣は責を負ふて辞職したが、5月2日に召集された特別議会では、貴族院に於いて、「選挙干渉に関し政府に反省を求むる建議案」を可決した。衆議院でも、「内閣弾劾上奏案」が提出されたが、直接、天皇に訴え、震襟を悩まし奉つるのは穏かでないといふ者があって、僅かに3票の差で否決され、改めて決議案とし、大多数を以って可決した。

同年12月、福岡県議会でも、「警察官の職務怠慢を内務大臣に建議」するの件として、選挙干渉の事実を取り上げ、当局を弾劾する決議をしたが、安場県知事は既に去って、山田為喧が之に代ってゐた。

 

(3)増補版・玄洋社発掘(平成9年、石瀧豊美、西日本新聞社

『演説会波乱 もめた比良松事件』

福岡の民党は岡田孤鹿・中村耕介・多田作兵衛・野田卯太郎・藤金作ら、そうそうたる顔ぶれがそろい、政治的影響力も大きい。玄洋社が旧士族や侠客・坑夫を動員したのに対し、民党側は地元消防団を動員して対決した。民党は自力の闘いを強いられた。安場知事は県下の警察・役場に命じて、公然と吏党票獲得に走らせた。このとき知事の片腕となったのが警部長中原尚雄。西南戦争の火付け役となった男である。

明治9年暮れ、当時、警視庁警部の中原は、西郷隆盛の動静探索のため鹿児島に潜入。「西郷を視察に来た」という言葉が「刺殺」と受け取られ、私学校派に捕まって拷問された。この西郷暗殺説に憤慨した私学校派が西南戦争を引き起こしたとされる。西郷の後継を任ずる玄洋社にとって、中原はいわば”不倶戴天の敵”のはず。両者が選挙干渉で協力することになるのも皮肉な話だ。

 玄洋社は重だった幹部を中心に、県内各地に散った。いずれも、はち巻きにたすきの十字がけ、木刀や仕込み杖を携えた。福岡城下では「今度は官軍でござすな、賊軍でござすな」と社員に問いかける人もあった。人々は福岡士族の反乱'、福岡の変(明治10年3月)を想起していた。

「吏党」玄洋社は、開通直後の九州鉄道もフリーパス。電信も利用して大いに機動力を発揮した。飯塚には赤池炭坑の頭領松岡陸平が、坑夫五十人を率いて乗り込んできた。柳川・三池には杉山茂丸・的野半介ら200人が福岡から押しかけた。朝倉・嘉穂に向かったのは進藤喜平太の一隊である。熊本からは国権党の300人が吏党応援に駆けつけたともいわれている。実際、吏党側死者1人は熊本県人であった。

県内各地に完全な無政府状態が現出した。玄洋社の壮士たちは日本刀で、民党側の消防組はとび口や竹槍で互いに渡り合った。夜になると、一団の壮士たちが民家の戸板に日本刀をブスブスと突きたてて歩いた。吏党に投票を強要する示威であった。銃声がとどろき、反対派の事務所に火がつけられた。なかでも、民党演説会に吏党側が、いわゆるなぐり込みをかけた比良松事件は、規模の大きさと警察のあいまいな警備から、のちのちまで県会で問題になった事件である。

2月1日、上座郡(今の朝倉郡)比良松の民党演説会は、会場野翠館に竹矢来をめぐらして、まるで”仇討ち場″のようなありさま。前日、夜須郡甘木、希声館演説会での乱闘騒ぎで、多勢に無勢の吏党側はさんざんな目にあった。吏党の巻き返しが予想され、比良松の演説会は前日に増して不穏の色が見えた。

会場700人で超満員。場外に2000人がつめかけた。その中には、玄洋社員大原義剛(のち九州日報社長・代議士)に率いられた200余の吏党勢もいた。彼らは赤の布ぎれを巻きつけて目印とし、他方の民党勢は黄の布ぎれをつけて、同士討ちを防ごうとした。

大正4年、福日連載の『選挙大干渉の回顧(当年民軍の意気を看よ)』は、その日の大原義剛の姿を、『大原そのひいでたちめて其日の扮装は、黒の木綿の紋付羽織に腕まくりし、右手に4尺許りの生木刀を杖つきて威風堂々たる骨柄で・・・・』と、まるで軍記物語のような筆致で描く。 

演説会は民党候補多田作兵衛の登壇で始まるが、多田の演説に、たちまち両派入り乱れてのなぐり合い。多田を護衛していた山中茂は頭をなぐられて重傷を負い、その場に倒れた。凶器は手ぬぐいに包んだ石であった。犯人はあとで自首して出た、'警官が目撃しながら現行犯逮捕できなかったことが、警察もグルだとして問題になるのである。

翌2月2日、大原義剛・木原勇三郎・安永東之助らの一隊は甘木から筑紫郡に向かい、防戦のため集まった民党勢と衝突した。民派の指導者山内万代雄は当時17、8歳の安永少年に斬りつけられ負傷した。この山内のもとに、一見玄洋社員風の青年が見舞いの品を持って現れ、緊張する一幕もあった。玄洋社員林斧介(出版業)が、今は敵陣にいるかねての友人山中茂に見舞いを送り、それを山中が山内に転送したものとわかったが、友人同士が敵味方に別れたための悲喜劇であった。

玄洋社壮士の盛んな横行に、ついにニセ玄洋社員の強盗事件というおまけまでがつく。2月17日の福陵新報によると、嘉穂郡千手村の民家に2人組強盗が押し入り「玄洋社の者だ。国家のために米を出せ」と米1俵を奪った。幕末の「御用盗」もどきだが、捕縛された犯人は、もちろん玄洋社とは縁もゆかりもなかった。

 

『舒翠館』の名前の由来を探しています

古い漢籍から来たと推定し、ネットで検索しました。しかし、なにやら中国語の化粧水の広告が出てくるだけで、『舒翠』の由来が分かるような情報は見つかりません。お心当たりあれば、お問合わせフォームへお知らせいただければ幸いです

→ 本サイトの読者の方から指摘がありました。(感謝!)

杜甫の「太平寺泉眼」という漢詩の一節に「北風起寒文,弱藻舒翠縷」とあり、ネットには、「弱弱しい水藻はみどりの細い糸すじを伸ばし描いている」と現代語訳されていました。誰が名付けたか知りませんが、明治のはじめの時期に相当の教養人がこの地域に居たあかしとも考えられ、ちょっぴりうれしく感じました。(2016年01月28日記入)