古賀大庄屋について

比良松は、少弐氏の末裔古賀新左衛門重儀が、戦国時代の1554年、大内氏の追手から逃れ隠れた山中から里に出て宮野菅生に移り住み、新たに一村を立て松を植え、平松と名付けたことにはじまります。

その後、古賀氏は上座郡下郷(合併前の旧朝倉町相当)の大庄屋を世襲し、またその支流も近隣の多くの村々の庄屋を務めたことが記録されています。

サイト管理者も、まちづくり活動の一環でこの地域の歴史を調べていくうち、古賀大庄屋とその一族が残した多くの功績に気づかされることになりました。(筑後川の灌漑事業を完成し、荒れ地を農地に変えて郷土の恩人として慕われる古賀百工もそのひとり。)

               http://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1297055198509/

そこで、古賀氏について興味を持ち、古い資料をいろいろと集めはじめたわけですが、その中に古賀氏の系譜と事蹟を系統的にかつ簡潔に記録した資料を見つけたので、ここで紹介しておきます。

             「郷土研究筑後」 昭和13年10月号、および 同昭和15年4月号、 古賀益城著

                http://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1297059687443/ 

資料の内容は、比良松を本拠とした古賀一族に加えて、その祖先の少弐氏、さらには武藤、藤原、中臣氏にまで遡る、前後編合わせて66ページの労作です。

このうち比良松に直接関係する部分、すなはち、”元寇の役の立役者少武経資・景資兄弟の末弟盛資から数えて8代目の時、滅亡寸前となっていた少弐宗家の末弟重頼を婿として迎え、その子重房が穂波那弥山の山中に逃れて姓を古賀と変えた”  以降の記述(原文のママ)をご紹介します。

また本文を参考にして管理人が編集した簡略な図3枚を最初に載せておきますので、本文と併せて参照いただければ幸いです。

なお、文中人名のあとの括弧内の数字は、中臣氏の伝説上の始祖天児屋根命(あめのこやねのみこと)を初代として数えた世代数で、ちなみに、中臣鎌足が23代、太宰少弐に下向した武藤資頼が39代、元寇の役の少弐経資・景資兄弟が41代、弥山へ逃れて古賀と改姓した古賀重房が49代、平松を興した古賀重儀が50代に当ります。

 

【藤原氏~古賀氏簡略系譜】

 

【古賀氏庄屋一覧(平松帰農後の古賀氏)】

 

【古賀氏が庄屋を務めた村々(赤文字表示)】

【古賀家譜抄録】

元冠の国離に、本営に帷幕の謀をめぐらした経資、戦場に馳駆して指揮の剣を振った景資を兄とし、前少弐資能の末子に盛資(古賀系41代)があった。「軍書類従」所載の「武藤系図」には「豊前次郎」と記されてゐるが、伝承「武藤系図」には「少弐豊後の守」とある。兄父と共に国難に盡した事であらうが詳しい次第は分らない。

盛資の子重資(古賀系42代)は、吉木彦太郎左衛門尉人道宗仙とも云ひ、筑前御笠郡吉木郷に居住してゐた。建武3年、前将軍足利尊氏筑紫下向の時は、宗家貞経・頼尚と共にその味方に属し、菊池武重が居城を攻潰す為め、仁木四郎次郎義長・一色太郎入道獻発向する際、吉木彦太郎入道は先陣として、肥後に向ひ、菊池の居城を屠り、八代の城も攻落し、粉骨の働き比類なく、尊氏から感状を賜はつた。康永2年59歳で卒した。妻は菅氏の女である。

頼信(古賀系43代)は太宰新左街門尉とも呼び、延文4年(正平14年)8月16日、筑後大保原の戦に、宗家頼尚に属して出陣し、菊池武光の軍と戦ったが、勇戦の後遂に戦死した。行年42歳。その子義資(古賀系44代)、武藤駿河守、応安6年(文中2年)2月16日、宗家冬資の時、筑後御原郡昧坂に、菊池武政と戦ひ、遂に戦死した。行年34歳。子頼勝(古賀系45代)武藤因幡守、筑前御笠郡天拝の城に居住し、宗家満貞の代、応永15年3月4日に卒した。子景資(古賀系46代)、武藤兵庫介。 嘉吉元年、赤松の変の為め宗家嘉頼、大内教弘の大軍に内山城を攻められたる際、城外に馳出でゝ勇猛を振ひ防戦したが、遂に11月9日討死した。行年47歳。子資重(古賀系47代)、武藤日向守。筑前御笠郡武蔵邑に住したが、宗家政資の代、長亨3年3月卒した。行年65歳。妻は菅氏の女である。

重頼(古賀系48代)、武藤新左衛門右近太夫。實は宗家少式教経(サイト管理者注:教頼の間違い?)の末子である。文正元年出生、幼児の時、資重に養育されてゐたが、成長の後、その聟となり、家禄を相続して、筑前御笠郡古賀の庄に住した。永正3年、宗家にして兄たる少就政資が、大内義輿の軍と合戦の際、鞍手郡勝野に戦って大利を得たけれども、大内方に援兵あり、状勢逆転して、大内の家臣松十郎興政と搬ひ、遂に討死した。行年41歳。

その子重房(古賀系49代)、空閑右京介、次郎左街門と号した。永正3年、少弐政資戦死以後、宗家少弐氏全く没落し、大内義輿は筑前を掌握して、彌々猛威を揮ひ、前の少武氏の族者を悉く捜出して鏖殺せんとした。之に困って、重房は古郷を去り、穂波那彌山村の山中に隠蟄したが、姓を古賀と更へ、藤原の家紋を梅鉢に改ためた。武藤家伝承の遺訓に日く

 

遺 訓     同新左衛門藤原重儀

当家祖先大蔵冠藤原鎌足公より十五世都督司馬少卿藤原資頼公筑紫へ下向有之以
下代々相相続の所三四十年前永正年中領地を大内に奪はれ古郷古賀庄を去りて此
所に隠れ古郷の二字をとりて氏を古賀に改め其の厄を避けたり之れに因って子孫
農となりて家名を永続いたし先祖代々の供養を営むべし
但し重寶録に記したる品は祖伝の重寶として子孫大切に秘蔵いたすべき事

天文十五年三月    古賀右京介藤原重房

而して、その「重寶録」には次の如く記されてゐる。

 

重寶録

此の重寶録に記したる品は祖伝の重寶として子孫大切に秘蔵致すべき事

天文十五年春三月   古賀右京介藤原重房

・太刀宗近一振  添書一巻

右は太宰少武藤原景資公弘安四年蒙古襲来の時防戦したる軍功の太刀

・資能公像一基  宗近太刀一振

右は別館太宰館に秘蔵すると云ひ伝へり

・鎌足公御霊塊
・百練
・朝廷より賜りたる御宸筆の御状
・少弐家果代の系図
・鎌倉より賜はりたる御感状
・蒙古の図写
・少弐家記録

右は種々の書状と共に大事にして箱に納め秘蔵して当家の重寶とす

・藤原家系図

右は重寶と共に大切に秘蔵すべし

天文十五年春三月  古賀重房

・神鏡
・遺訓一巻
・祖父討死巻一巻
・灸黠巻一巻

右は父重房より伝はる

天正十八年春三月  古賀重儀

 

是等の重寶は散逸して一つも存してゐない。太宰家の口碑として「我が家の地下には大きな石櫃を埋めて居る」と代々傅へた由であるが、何れの地点であるか、今は尋ぬべきよすがもない。重房は、天文21年4月14日、行年63歳で病死した。法名空閑院殿宗本大禅定門。

 

重房の子に3人あった。長男は大蔵大輔資房、天正6年2月23日卒した。次男は古賀新左街門重儀、3男は伊藤種房、彌山淑源左衛門の養子となり、彌山中務少輔種房と云った。立花家に仕へ御笠郡岩屋城の城代となったが、豊田秀吉の九州征伐に際し、島津の大軍と戦ひ、天正14年7月28日、城主高橋紹運と共に討死した。

独り次男重儀(古賀系50代)のみは、父の遺訓を體して農となり、天文23年、31歳の頃、彌山の山中から、上座都菅生村平松に移った。(サイト管理者注:現在の舒翠館の場所) 「朝倉紀聞」に「夷の松。市中に松一株並石體の神あり。昔、郡長古賀新左衛門重儀と云者、此所に居住し、宮野菅生の地を分て一村とし、新に町を立、松一本を植、平松と號し、終に平松を以て里號とせり。11月3月に夷を祭る」と。尚ほ「筑前国続風土記」にも、「平松町の街道に松樹有、其枝四遍に茂り平なり、故に町の名を平松と稱す。其側に石有、是を夷三郎殿と祝祭る。此夷の為に植し松成べし」とある。今は比良松の東部厳島神社内に移されてゐる。

重儀は農民として、天正15年小早川降景入国の時、64歳を以って上座郡惣庄屋職を勤め、黒田長政入国の後まで及んだ。長政は初め名島に在つたが、慶長6年今の福岡に舞鶴城を経始し、凡そ7年を閲して漸く成った。重儀は召されてその建築奉行を命ぜられた。或日、長政は重儀に封し、名門の後裔なれば、仕官しては如何にと勤めたけれども、重儀固辞して受けなかったので、長政が建築小屋で晝飯に用ひた碗2個を手づから賜ふた。一は蓋付の木製黒塗の飯碗で、蓋に黒田家の定紋3つをうってあり、一は玉子形の陶器製の茶碗であったと云ふ。慶長13年11月10日卒した。行年85歳。法名皈一古白宗淳信士、墓所は比良松にある。

 

重儀の息3人あり、伯(サイト管理者注:長男のこと)を重宗、仲(同次男のこと)を重勝、叔(同三男のこと)を重利と云ひ、それぞれ上座下半郡に庄屋となって、明治維新の前に及んだ。

伯(長男系)

伯の重宗(古賀系51代)古毛村庄屋となり、重増(同52代)、重時(同53代)、善治郎(同54代)、彌吉(同55代)、重基(同56代)、亦兵衛(同57代)、叉兵衛(同58代)、彌内(同59代)、相伝えた。その間重基の後に幸兵衛、彌内の後に慶助、縁家より立って、一時庄屋職を勤めたこともある。

重増は古毛村庄屋に兼ねて田多連村庄屋を勤めてゐたので、長男重時に古毛村庄屋を伝へると共に、次男重宗(同53代)に田多連村庄屋を分つた。その後、清右衛門(同54代)、重康(同55代)映程(同56代)、和作(同57代)と続いて田多運付注屋を勤めたが、その跡は絶えて不明となってゐる。

古毛村庄屋重時の長子重行(同54代)は、新に石成村庄屋となり、古毛村庄屋の方は前記の如く次子善次郎が継いだ。重行の子彌八(同55代)、その弟叉七、四郎右緒門(同56代)、三郎右衛門(同57代)、亦七(同58代)、次兵衛(同59代)、九兵術(同60代)、その義弟義連、重近(同61代)、重遠(同62代)、重量(同63代)、続いて石成村庄屋の職を勤めた。

仲(次男系)

仲の重勝(同51代)は入地村・大庭村の庄屋を兼ね、並に上座郡惣庄屋を勤めた。その後重種(同52代)も入地村・大庭村庄屋を襲ぎ、重直(同53代)は入地村庄屋並に慶安年中上座郡下郷觸口職を勤めた。高重(同54代)、元重(同55代)、重祐(同56代)、仁右衛門(同57代)、その義弟重玄、新右衛門(同58代)、相次いで入地村庄屋を勤めたが、新右衛門卒する時、子重保未だ9歳だったので、伯父喜七庄屋役を勤め、同人役を辞した後は比良松大庄屋古賀重信弟来七圧屋入役をした。

高重は通穪仁右衛門と云ひ、博聞多記であって、よく地理を研め史實に詳しく、元禄7年「朝倉紀聞」を著した。叉中町の小松畑と穪する地は、もと荒蕪地であったのを、高重が開墾して小松を植ゑたので、斯く名づけたと云ふ。その他久保鳥川井堰工事を起して用水に便し、祭田鳥居等を寄進して敬神の範を示す等の善行が多かった。特に屋敷に近き山王神社は戦国時代から大友氏のために兵火にかゝること屢々で、共の朽敗甚しかった。元禄年間、水災病難続出して、農民大に困惑憂慮し、或は社殿頽廃の為め神罰に因るものではないかとの流言さへあったので、高重は大に之を憂ひ、社殿を造営し石鳥居・石段等悉く新調して、敬神之努めたので、災難忽ちに絶え、農民の信仰益々篤く、高重の徳望大に挙った。

入地村・大庭村庄屋重種は、寛永10年御公儀に申上げ、大庭村を2つに裂き分け、半分は下大庭村と名づけて、従前の如く入地村から掛持ちした。半分は上大庭村と名付け、弟重勝に譲渡し庄屋職を勤めさせたが、重勝の子助左街門(同53代)の時、承応3年御年貢米大豆引負け、庄屋召上げられた。先祖筋目に付、入地村庄屋重直に跡圧屋仰付けられ、入地村から持掛に勤めたが、重直の養子重則(同54代)上大庭村庄屋となった。その子寛重(同55代)、弟重次、寛重の子藤四郎(同56代)、宇八(同57代)、伊兵衛(同58代)、次いで上大庭村庄屋となったが、その跡は絶えてゐる。

重種は上大庭村庄屋を弟重勝に譲渡した後、入地村庄屋を養子重直、下大庭村庄屋を養子重友(同53代)に継がしめた。重友病死の時、實子包堯は2歳であったから、祖父元入地村庄屋重種から公儀へ御願申上げ、幼少の重成に庄屋職仰付られ、入地村庄屋重直が後見した。3年の後、長淵村先庄屋久保輿左街門の子九郎右衛門を、重成母に後家入りさせ、重成成長の問、10ヶ年間庄屋職を、九郎右衛門預り分で勤めたが、その後重成●父の後を襲いて、下大庭村庄屋を勤めたが、延賓2年、長淵村庄屋藤九郎跡に仰付けられたので、下大庭村庄屋は義弟包堯に譲った。下大庭村庄屋は、包堯の子重厚(同55代)、百助(同56代)、五右衛門相襲いて勤めた。

患蘇宿水神社境内にある「堀川紀功碑」に、「寶歴9年、大川奉行十時源助、之を増廣して十尺と為す。郡奉行寺田某、更に屬吏森喜作と大庭村の庄屋古賀十作とに命じて、水利堤防の事を掌らしむ。寛政中、十作の従子古賀百工と云ふ者、大に之を修補す。今に存する所の山田の石堰は即ち其の遺蹟たり。是に至って水勢増々加はり、滾々として上座郡山田・菱野・古毛・田中・多々連・長淵・入地・大庭・石威・下座郡の中島田・福光・鵜木・片延・中村、十有四ケ村に注流し、灌漑する所の田487町9段有餘歩にして、其の利大なり」とあるが、文中記する所の十作・百工に就いて、之を判明するに至らなかった。然るに頃日、調元米によって百工の墓が見出された。墓は大福村徳次から耕地整理の為め上楽墓地に移葬されたものらしく、正面に「釋秀圓」と法名を記し、側面に「寛政10年戊午5月24日、古賀百工義重、行年81歳」と3行に記されてゐる。堀川治水に功労あった百工は、前記下大庭村庄屋五右衛門であり、其の父十作は、同庄屋百助に當るやうである。

重成が、久保氏の後を承けて長淵庄屋となったことは前記の通りである。その裔重凞(同55代)、規重(同56代)、重直(同57代)、治国(同58代)、重規(同59代)、重義(同60代)、その義弟要三郎、重義の子重規(60代)、相襲いで明治維新に及んだが、その後嗣絶えて今はない。

叔(三男系)

叔の重利(同51代)は、平松村・須川村圧屋となり、その子重行(同52代)襲ぐ、重成(同53代)、重明(同54代)、重榮(同55代)、重教(同56代)相継いで、平松村・須川村庄屋となり、並に觸口を兼ぬ。重教享保中より大庄屋となり、息応(同57代)、重信(同58代)、重敦(同59代)、その義弟以周、重幸(同60代)下郷大庄屋を勤めた。重信の弟來七、入地庄屋新右衛門卒後、入地庄屋に入役し、市八・十平相次いで同様入地庄屋を勤めた。重榮は寶榮4年の頃、入地村庄屋古賀二郎重賢、奥山田村庄屋樋口新四郎秀信と共に「恵蘇八幡宮縁起」を撰した。恵蘇八幡宮神殿改築棟板に「上座郡農長新兵衛安永4乙未秋9月成」とある。新兵衛は重信の通稱であって、同じく「上座郡農長古賀八郎右衛門文化4乙卯年12月」とある。八郎右衛門は重敦の通稱である。尚恵蘇八幡宮へ寄進の神鏡裏面に「奉寄進恵蘇八幡宮文政3庚辰正月吉日上座郡下郷惣農長古賀藤作以周」ともあり、代々恵蘇八幡宮信仰の跡が歴然と存してゐる。

重教大庄屋となる後、須川村庄屋を次男重賢(同57代)に、平松村庄屋を三男重慶に譲った。須川村庄屋は、重賢卒後、暫らく叔父三郎助相勤め、その後重賢の子重固(同58代)、重説(同59代)、利太郎(同60代)と相襲いたが、利太郎文政2年放役され、弟重吉相続した。

平松村庄屋は重慶(57代)の一代で後を記さないが、或は従来の如く大庄屋で是を兼ね行ったのではあるまいか。

重明の次子重次(同55代)、延寶7年前庄屋吉松清兵衛倒れたる跡を襲き、宮野村・烏集院村庄屋となり、方殊(同56代)、直経(同57代)、その義弟重孝、相襲ぐ。重孝は後に鳥集院庄屋を弟則正に譲る。賓暦年中重孝改ためて上寺村庄屋忠六跡仰せ付けられ、官野村庄屋を嫡子重隆(同58代)に譲り、次男成實召し連れ上寺村庄屋を相勤む。成實(同58代)、宅七(同59代)、上寺村庄屋を襲ぐ。重隆は暫く官野村庄屋を勤めたけれども、後轉役し下座郡四郎丸・八重津・白鳥・吉末・倉園の庄屋となった。重隆の孫重英(同60代)、宮野村庄屋を相続、その子重方(同61代)、重賢(同62代)、上寺村庄屋を勤め、明治に及んだ。

則正の子重徳(同58代)、重籌(同59代)、烏集院村庄屋を襲ぎ、重義(同60代)、大庄屋、御郡代司となる。重義の長子嘉一郎は宮野村庄屋を、次興七郎は烏集院及び須川村庄屋を、重籌の弟重永は須川村庄屋を、重永の長子禮助は、田中・多々連・古毛・山田・須川・大庭諸村の庄屋を、禮助の長男九又は長淵・石成庄屋を、四男茂七郎は多々連村庄屋を、更に重永の次子元平は多々連村庄屋を、その子良平は多々連・田中・比良松村庄屋を或は掛け持ちし、又は入庄屋となり、徳川時代の末葉、明治維新前後には、此の一門庄屋一手引受の盛観を呈した。殊に禮助の如きは、至る處紊亂せる村を整理したので、箒庄屋と仇名されたほどであった。

(中略)

天文23年重儀朝倉に居を移して以来、明治維新に及ぶまで310餘年の間、上座下郷の大庄屋となり、古毛・平松・須川・宮野・烏集院・多々連・.入地・上大庭・下大庭・石威・長淵・上寺の諸地方に庄屋として、門葉繁栄、地方郷土の為め貢献した處尠くない。

重儀が植た比良松は、天明4年(1784年)藩命によって加藤一純が編輯した「筑前續風土記附録」巻之十六に挿繪(表紙掲出)として描かれてゐるので、その有様を知る事が出来る。比良松現存の古老に聞くと、明治10年頃までは、町中の坂道の所(大庄屋々敷跡と云傳へられ、今は赤間屋菓子店のある前の坂)にあったそうで、丈は餘り高い方でなく、奇麗な庭松式の所謂平松であったとの事である。その後附近に火災があった為め樹勢を損じて枯れたと共に、急坂を除き道を廣める必要から、松の根本にあった恵比寿様の石垣は厳島神社の境内に移し、代りの松を植たそうである。その石垣には明治12年卯5月と刻んであるから、大凡その頃の事であらうと思はれる。