平成27年3月に作成した比良松案内のパンフレット( ↓ 下にあります)に載せた比良松の歴史です。文字が小さくて読みづらいので、テキスト文書で記述しておきます。
1. 古代の比良松
古代比良松周辺は広瀬郷と呼ばれていました。筑前と豊後を結ぶ交通の要衝であり、筑後川の水運の便もあって、商業の盛んな地域であったと推定されています。また、661年の朝倉橘廣庭宮の造営にはじまり、斉明天皇の急死、白村江の敗北という歴史の動乱に由来する地名、史蹟、伝承がこの地には数多く残っています。この比良松周辺に斉明天皇、中大兄皇子、大海人皇子、鸕野讃良皇女(のち持統天皇)、中臣鎌足、額田王、などが集い、戦乱の中に華やかな宮廷絵巻が繰り広げられたと思うとワクワクさせられますね。
2. 律令時代の比良松
強大な中央集権体制を築いた大和朝廷は、都を中心とした道路網(古代官道)を全国に構築しました。太宰府と豊後を結ぶ官道は比良松を通っていたと推定されていましたが、近年の井出野・八並両遺跡の発掘調査の結果、当時の大規模な政庁(上座郡衙)が比良松中心部にあったことが確認され、その推定が裏付けられました。天平の甍の連なる郡役所の前を古代官道が通り、古代の駅(広瀬駅)には駅馬が常備されて、中央の命令を地方に伝える役人や商人が街道を行き来する、そのような情景が目に浮んでくるようです。
3. 比良松の名の起こり
時代は下り武家の世になります。中央集権体制は崩壊し群雄割拠する中で、中央と地方を結ぶ街道も一時的に衰退していったと考えられます。そして戦国時代の1554年、蒙古襲来で名をはせた少弐氏の末裔、古賀新左衛門重儀は、大内氏の追手から逃れ隠れた山中から出て宮野菅生(須川)に移り住み、新たに一村を立て、枝を四方に広げた松を植えて平松と名付けました。その場所は、現在の舒翠館の場所であり、明治10年の火災で樹勢を損じて枯れるまで、永くその姿を残していました。
なお、古賀氏の子孫は代々上座郡下郷の大庄屋を務め、支流も近隣の村々の庄屋として活躍したと記録にあります。
4. 日田街道と比良松
江戸時代、福岡と天領日田を結んだ日田街道が比良松旧道です。江戸中期以降、日田代官所の公金を元手にした日田金と言われる経済力を背景に街道は賑わいました。また同時期、筑後川の治水・利水の発展による周辺の農業生産力向上もあって、比良松は農村部へ財、サービスを提供する在郷村としても発展していったと推定されます。なお、現在街道筋に残る歴史的景観は、安政2年(1855年)の大火の直後に再建された建物がその多くを占めています。
5. 明治・大正期の比良松
明治以降の人口の増加、また四民平等社会の到来による農村購買力の増加で、在郷村としての比良松は大いに発展し、繁栄のピークを迎えます。旧道の両側には商店が密集し、近隣農村地帯からの買い物客で賑わいますが、明治の末に完成した新県道(現国道386号線)及びその上に敷設された朝倉軌道によって、賑わいを次第に新道沿いの商店街に譲ることになります。結果、この時期に幹線道路から外れたことで、その後の急速な近代化の波にも洗われることなく、往事のたたずまいを今に残すことになった次第です。 以上、比良松の簡単な歴史でした。
【比良松パンフレット】